黒髪
「ニャー」
「かわいいな。お前は」
師匠とクロが戯れている。ぴょこぴょこ動き回るクロと、それをにこにこ見つめる師匠。
あんな笑顔を向けられた事のない僕は、クロに少し嫉妬していた。
師匠は髪を切っていた。少しだけ染まったビターな感じの色も黒くなっていた。
髪の色を変えたのはサトウ君の好みによるものらしい。
ちくしょう!サ・ト・ウ!
……黒髪の師匠もいいけど。
先週図書館へ行ったことを報告した。
――距離も長かったし、坂がきつかったです。筋肉痛になりました。
すると師匠は、やはりそうかと呟く。あごに手を当てて、何かを考えていたようだった。やがて、うん、とうなづいて口を開いた。
「……走れ」
――走る?
「そうだ、走るんだ。体力をつけるには走るのが一番だ。少しずつでいい、いきなりはきついからな」
師匠は遠い目をする。もしかして、と思って師匠も走ってたんですか、と尋ねてみた。
「ああ。引きこもりから抜け出す時にな。あと、小学生の時にも走った。私は子供のころ太っていたんだ。だが痩せた。走る事でな」
今の師匠はどう見てもやせ形だ。
――かなり走ったんですか?きつくなかったんですか?
「ああ、きつかったよ。それでも楽しかった。お父さんが協力してくれたんだ。休みの日は朝から、平日は会社から戻るなり一緒に走ってくれたよ」
いいお父さんですね、と僕が言うと、師匠はお父さんの事を語ってくれた。
「弱いけど優しい人だった」
「母に尻に敷かれていた」
「車が好きな人だった」
そう話す師匠は子どものような笑顔を浮かべる。同時にどこか寂しそうな雰囲気も感じられた。
僕はその理由を聞く事が出来なかった。聞いてはいけない気がしたからだ。
僕は、いままで人の家庭の事情なんて聞いた事がなかったと気付く。
友達が少なかったし、腹を割って付き合える友達はさらに少なかった。
何よりも他の人の気持ちに無関心だった。
……生き方を間違えていたかも。
でも、今日は少し師匠に近付けた気がする。
それでは、また。