出来ない事と生きる事
僕は中学生時代、卓球部に入っていた。
実力は無くて、部の最弱候補、筆頭。
明らかな欠陥があった。
僕は回転サーブを出せない。
不器用なのか、運動神経がないのか、いまだによくわからないが、いっさい回転が使えなかった。
それがどういう事か例えてみると、忍者が忍術を使えないようなものだ。
侍が剣を振るえないみたいな。
作戦が立てられない。バカ正直に、相手にとって打ちやすい球しか出せない。
すごい不利。しかも知らない連中にも笑われるし。
「あいつ、回転使えないんだ(笑)」。
傷ついたし、悔しいし、勝てない。
顧問の先生に相談しても、どうしようもなかった。
結果、僕はスネて部活に行かなくなり、カラオケボックスに入り浸ることに。
大声で歌いながらも、心のどこかで思い続けていた。
「他の人はできるのに、自分にだけはできない。自分は劣っている」と。
どこか心の奥深くで、そんな思いを引きずり続けていた。
19歳の時。
統合失調症になった。
「できない事だらけ」になった。
食後の薬を飲んで2時間は動けなかったし、落ち着かない時はじっとしていられなくて、部屋の中をぐるぐる歩き続けたり。風呂にも入れなくなった。湯船につかっていられなかったからだ。
外出なんてもってのほか。
2週間に1回ぐらいは外に出ていたけれど、真夜中に自販機の前に行くぐらい。
何もかもが怖くて、痛みと自己嫌悪しかなかった。
当時の僕は「もう何もできない。未来なんてない」と悲観していた。
気に入らなかった。
病気も、抵抗すら出来なかった自分自身も。
だが、卓球部みたいに退場することはできなかった。
死を選べなかった。
首にコードを巻いた事はある。
だけど、やめた。
なぜやめられたのか、理由は未だにわからない。
でも、生き残った。そして、その時の自分の選択に満足もしている。
それから、
時間をかけて、ゆっくり、じっくりと人と関わったり、生きる事の意味を自分なりに整理していった。
すると、恐怖は揺らぎ、飲む薬の量も徐々に減っていった。
僕はずっと「自分にできない事があるのは嫌だ」と駄々をこねていたけど、
だんだん考えが変わり、「出来ない事があって当たり前だ」と納得できるようになった。
ようするに、自分はわがままだったと気づけた。
自由は拡大している。
いまならコンビニにも行けるし、文章や絵を描いたり、料理をしたり、お酒を飲むことだって楽しめるようになった。風呂は1日に2回入りたいぐらいだ。
「できない事」を受けいれた途端に、「できる事」が飛躍的に増えた。
人生は不思議だ。どういう仕組みかさっぱりわからない。
でも、きらいじゃない。
生きていられる事が嬉しい。
それでは、また。