木と世界
呼び出しをくらった。
母から「内職が大変だから、手伝って」と。
徒歩で向かう。
昨日の事もあって、僕は弱気だった。
人に嫌われたり、否定されるのはつらい。できるなら全ての人と仲良くしたい。
でも、そんな事は無理だ。僕が否定しなくても、向こうの都合で否定してくる事がある。
そもそも僕の中にだって敵意や攻撃性がある。
それを何とかしたくて、でも、どうにもできなくて目をそらしていた。
ずっと。
自分が人にどう見られるかとか、超えられる壁とそうでないものとの違いを考えると、ひどく惨めな気分になるので、周りにあるものに気持ちを向けてみた。
人家の木々や咲いている花を見る。
今まで「木」としてしか見ていなかったものも、種類によって全く様相が違う事に気づく。先っぽがとがっているとか、曲がっているとか、太いとか細いとか。
色や質感、高さなんかも。
もちろん同じ種類でも個体差がある。それで気付いた。
自分は間違っていたんじゃないか?
僕は空気を読むとか、文脈を読む事が苦手だ。未だにおしゃれもよくわかんないし。
だから、「やさしくしよう」と思えば際限なく人に甘くなって失敗するし、「まじめに勉強するぜ!」と思えば全教科同じ配分でやったりした(すげえ効率悪かった)。
乱暴だったと思う。
大事なのは違いに気づいて、それを認める事なんじゃないのか?
違いを見ないというのは、「平等に扱う」とも言えるけど、裏を返せば「きちんと相手と向き合っていない」という事だ。
人や物事によって対応を変える事こそ「きちんと向き合うこと」なんじゃないか?
だからこれから僕は「好き」も「嫌い」もちゃんと見つめようと思う。
それによって自分の都合で、合う人、合わない人が出てくるのだろう。
結構気が引ける。
「あの人嫌い」とか考えるのはちょっと、なんていうか、自分が悪い人になったみたいだ。
たぶん他の人たちは普通にやっている事なのだろう。だからこそ僕に「死ね」とか「消えろ」とか言うんだろう。
敵意があった。
せめて自分は人に対してそんなふうに思いたくない、と。
意固地になっていた。
あいつらみたいになりたくねえ、と。
そういうのが伝わってたんだと思う。だから、嫌われてた。そんな気がする。
これから。
「好きなこと」はもっと好きになって、「嫌いなこと」もちゃんと嫌う事にする。
見ないふりして逃げるのはもうやめる。
そう決意すると、世界と自分の輪郭がくっきりする気がして、心地よかった。
「人に嫌われる自分」もきちんと受け取れる気がした。
さわやかな気分で実家にたどり着く。
そのあとは、内職地獄だった……。
それでは、また。