そのままの
午後1時。
師匠はやってきた。
なんだか落ち着かない様子だった。
師匠はここへ来るなり急いでレポートを書き始めた。
一言も話さない。
僕が淹れたコーヒーを一口も飲まない。目も合わさない。僕が話しかけても、「おう」とか「ああ」しか言わない。
会話が成り立たない。
その理由が僕にはわからなかった。
ただ忙しいのかもしれない、あるいは嫌な事があったのか?
いや、嫌われた?
僕が面倒くさくなった?
焦る。不安が胸に広がっていく。こわい。
僕は、親に見捨てられる事に怯える子供時代に戻った気分だった。
このままじゃ駄目だ。
事情を聞けばいい、という答えは出た。
だけど「お前には関係ない」「詮索するな、うざい」なんて思われたら、と思うと言葉が出てこない。
しかし。
僕は勇気を出して聞いた。
――何か急いでいるんですか?
「ああ、バイト先の喫茶店がつぶれた。洗面台借りるぞ」
師匠は立ちあがって洗面台の前に立つと、そのままクレンジングを始めた。
じゃぶじゃぶ洗う。
またたく間にすっぴんになった。
びっくりして見守ることしかできない僕とは対照的に、師匠はバッグからテキパキと鏡とメイク道具を広げた。
「あわただしくて済まない」
メイクをしながら師匠は説明してくれた。
バイト先の喫茶店がつぶれ、新しいバイト先を探したという。
それで、すぐに次のバイトの面接に行く事になったそうだ。
メイクを落としたのは「このままの化粧じゃNG」だから、らしい。
高級ウナギ料理店のバイトだという。
「派手なメイクじゃ通らん。控え目にする」
――可愛ければいいんじゃないですか?
師匠はそう言った僕を鼻で笑っていった。
「そんなに甘いもんじゃない」と。
メイクを終えた師匠は鏡の前でにっこりしたかと思うと、僕を見た。
「どうだ?」
ナチュラルメイクというのか、化粧しているのかどうかわからないくらいだった。
可愛いもの(猫とか)は正義だというけど、師匠も正義だと僕は思う。
――最高です。
「何の参考にもならんコメントだな。さて、キャラはどうするか、だ」
――キャラ?
「職場でどう立ちまわるかだ。基本的に私はどこでもバカで親しみやすい受け答えを心掛けている。しかしそれも面倒になってきた」
――よくわからないけど、そのままの師匠でも僕は……
師匠は手を挙げて僕を制止する。
「言うな。でも、ありがとう。……なんの役にも立たんがな」
師匠は穏やかに笑った。
師匠が言うには、人間関係は演技だという。
社会にはいろんな人がいて、素の自分を出し過ぎると「ロクなことにならん」らしい。
――ちなみに普段はどんな演技を?
「だからぁ、こんなカンジぃ?」
髪を指でくるくるもてあそんで、上目遣いで見てきて、わざとらしいまばたきを繰り返す。
思わず言ってしまった。
――バカみたいですね。
「……傷ついた」
――ああっ!すみません!そんなことないです!かわいいです!
「もういい」
――でも、僕はいつもの師匠の方が……。
「ああ、もういい。わからんやつだな。でも、ありがとう。……クソの役にも立たんがな」
師匠はそのまま面接に向かった。
僕はその背中を見送りながら自分も頑張ろう、と強く思った。
それでは、また。