根拠
7月4日は、僕の母の誕生日だ。
今日、母は60歳になった。還暦だ。
プレゼントは先日したので、今日はかき氷をコンビニで買って持って行った。
かき氷は喜ばれたけど、歳をとる事は嬉しくないと言っていた。
立ち上がる時に膝が痛む話を聞いたり、入れ歯を磨く後姿を見ると、
ああ、年取ったなあ、と思う。
僕が幼い頃、母が僕に「愛している」と言ってきた事がある。
僕はそれに対して、どんな根拠があって?と問うた。
母の回答は、「血のつながった親子だから」。
納得いかなかった。僕は問い詰めた。他にないのか?と。
それしかない、と母は言った。
僕は落ち込んだ。
正直に言うと、血のつながりなんて僕にとってはどうでもいいことだ。
そこに説得力を感じられない。
仮に僕が「母の息子でない存在」としてこの世に生を受けたなら、母の関心を得られなかった。
「自分が自分だからこそ愛されているわけではない」。
そう思うと、心がつぶれそうになった事を覚えている。
まあ、母には母の理屈や考えもあるだろうし、血のつながりだってそんなに軽いものではないのかもしれない。
だが、あの時僕は納得できなかった。確か、泣いた。
ちなみに僕は、人のつながりとは、
互いに向ける関心の強さと、交わす言葉と想いの強さに支えられるものだと思っている。
だから、近所の人に挨拶する時も、人と話す時にも僕は念みたいのものを込めている。
そんなの意味が無い、と言われれば何一つ反論できないけど。
それで、少年時代から、思春期にかけて僕は拗ねていた。
抵抗していた。
「愛してくれねえのかよ」って。
もう1人の親がいなかったのも、大きいと思う。
だけど、大人になるまでにケンカもしたし、
僕が病気になった時も母は僕を見捨てなかった。
母が愛してると言ったなら、母にとってはそれが真実で、それを否定するのはただのわがままだと気づいた。
それに僕自身、いちいち根拠が無ければ信じられないほど不安でもなくなった。
母が還暦になって、いま僕が思うのは、
生きていてくれたらそれでいい、という事だ。
執着が薄れたのか、僕が大人になったのか、あるいはただ心が鈍くなったのかのはわからない。
けれど、これでいいと思う。
還暦を迎えて、これから何をしたい?と母に聞いてみた。
「レース編みを始めたい」と言っていた。
趣味の無い母が一歩踏み出した。
僕にはそれが嬉しかった。
僕も何か始めようと思う。
心配ばっかするのも疲れたし、心配かけるのも駄目だと思うから。
がんばろう。
それでは、また。