言葉だけじゃない
先日、甥っ子が高校で受けた全国模試の問題を持ち帰ってきた。
彼が言うには「難しくて、さっぱりわからない」との事。
やってみる?と聞かれたので、僕は挑戦してみた。
それで、実際にやってみると、全然わからなかった。
手が出ない。歯が立たない。
中学までは問題を解いたり、甥っ子に教えたりできたけど、高校のレベルになるともう対応できない事がわかった。
とくに英語がわからなかった。
英語と言えば外国語。
外国語ではないのだけど、僕には一度習得を目指して挫折した言語がある。それは、
東北弁だ。
使い手は母方の祖母だった。
じいちゃんは標準語を喋っていたのだけど、ばあちゃんは訛りというか東北弁がすごかった。
会話が難しかった。
2つのハードルがあった。
まず1つは、リスニング。
ばあちゃんは普段おしゃべりな方ではなかったが、喋るときはけっこう早口だった。
なので、聞きなれない言葉を聞きとることが難しかった。
もう1つは、単語の理解だ。
訛りと言っても、もうだいぶ日本語から離れた印象だった。
単語が独特だ。たとえば、
男の子=やろこ。
女の子=へなこ。
とか。
単語が理解できないのだから、会話なんて夢のまた夢だった。
ついに僕は祖母の生前、親戚の翻訳なしで祖母と会話する事がかなわなかった。
姉もばあちゃんの言葉を理解できないと言っていた。
姉はばあちゃんに何を言われても笑顔で「うん、うん」とうなづいていた。
それで結構うまくいっていたみたいだけど、一度僕の目の前で、ばあちゃんが姉に怒り出した事があった。
でも、その時もなんて言ってるのかわからなかった。
会話ができなかったとは言え、僕はばあちゃんが好きだった。
こたつに入ってテレビを見ていると、いつも「みかんいるか?干し芋はどうだ?」って聞いてくれてた。
その厚みのあるグローブのような手を見ているだけで、安心感を覚えていた。
タバコを吸う時は真顔になってちょっと怖かったけど、
池の鯉に餌をやってる時の後姿のフォルムはまん丸で、かわいかった。
東北弁はわからないままだけど、
ばあちゃんは存在感で何かを語ってくれていた。
僕も孫として、ちゃんと生きようと思う。
それでは、また。